松風 第一三回
ことばは、ひかり
北野健治
先日、年配の方と話していて、「最近はテレビを観る時間が減った」という意見が一致した。テレビを観ないからといって、ネットやゲームアプリをしているわけではない。単純に観る時間が減っただけ。
昭和の時代は、現在主流の街ネタや芸能人のひな壇番組はなく、ドラマも恋愛物はなかったような気がする。
今、僕が観ている番組といえば、ニュースにドキュメンタリーがほとんど。基本的には現在の世界を映しているものがメインだ。
最近観たドキュメンタリーで印象に残ったものがある。「世界はことばで満ちている」(NHK‐Eテレ ETV特集 2025年6月14日放映)。
ろうの写真家・齋藤陽道さんを主人公に、彼の家族の日常と個展に焦点をあてたもの。齋藤さんの家族は、番組の始めでは、ろうの奥さんと健常者の息子さん二人に、後半には娘さんが加わる(今、言葉に表して、「健常者」とは、なんと傲慢でカタいことばなのかと実感した)。
番組の中で、いちばん胸に響いたのは、家族での食事のシーン。全員で「いただきます」は当然のことで、そのあとの長男の振る舞いについて齋藤さんが怒ったとき。
「迷い箸はしては、いけない」
ここで、脇道にそれるが、「怒る」ことと「罵る」ことは全く違う。それは、その行為に「愛」があるかどうかの本質的な違い。
さて、そのシーンを観た瞬間、僕は「この人は、ひととして信じられる」と直感した。
ほかにも、いくつも心に沁みるシーンがある。次男の卒園式、一人ひとりが両親に感謝のメッセージを発表する。みんなの視線が集まる中、次男は家庭では使っている手話で表現するのをかたくなに拒む。両親の「手話で」との願いに、両手をおろし、目立たないよう手話で感謝のメッセージを伝える。
新宿で開催した個展に、全盲の女性が訪れたとき。「写真家になりたい」という彼女の想いに応え、齋藤さんが自ら彼女の手を取って、会場内の作品を紹介するシーン。「きっと写真家になって、いい写真を撮って」。ろうと全盲の二人のコミュニケーション。
家族がまたいい。息子さんたちもだが、パートナーのろう者の奥さん。「彼があきらめることのないように、すべてサポートする覚悟がある」と手話でのコメント。
番組の後半、制作者から齋藤さんへ、ろう者へのありきたりの質問がされる。「齋藤さんにとって、『ことば』とは、なんですか?」。
手話のことばで答えようと苦悶する齋藤さん。だが、結局は答えが出ない。「わかりません。でも。それって重要なことですか」。
ぼく的には快哉。見事な回答。さて、質問者には、この「答え」の重みを受け取ることはできただろうか。
この番組を観た僕は、こう答えたい。
「ことばは、ひかり」
彼の写真の中で続いている、テーマのひとつが「神話」。そこには、家族の生活をモチーフにした作品がある。ドキュメンタリーの中で取り上げられた作品に、ぼくは「ひかり」を感じたのだ。それは、メッセージ=ことばとして。
「初めにみ言葉があった。/(中略)/み言葉の内に命があった。この命は人間の光であった。」(「ヨハネによる福音書」、『新約聖書』、訳者:フランシスコ会聖書研究所)
光とともに幸いあれ、とぼくは祈る。そして番組を観終わって、これからの齋藤さんの作品を楽しみにしている、自分がそこにいた。
2025年7月3日
(つづく)