松風 第一六回
わかりやすさの「アカデミズム」
北野健治
私にとって、美術評論家とは篠田達美(一九五一―)だ。
今では、考えられないことだが、この国で、美術評論が社会的影響力をもっていた時代がある。個人的には、戦後の一九六〇年代から一九九〇年代ぐらい。
これは、当時の美術評論家三羽ガラスと言われた東野芳明(一九三〇―二〇〇五)が、脳梗塞で倒れた時期になぞらえている。それと、もうひとつの符号。
あとの二人は、中原佑介(一九三一―二〇一一)と針生一郎(一九二五―二〇一〇)。
一九六〇年代の日本は、“熱い”ときだった。戦後からの復興が基盤に乗り始め、戦中までとは違う、リベラルな世界観を中心とした「ユートピア」への渇望が高まった時期だった。
その想いは、社会のさまざまな場面でのムーブメントとして現れる。美術の世界も、それに違わない。
個人的な評としては、フィールドワーク的な活動の東野氏、発想の中原氏に史的な針生氏という。それぞれの立ち位置による評論が、当時の若手を中心とした美術界を席巻していた観がある。
中原氏とは、草月出版の役員ということもあり、仕事以外の話をする機会があった。印象に残っているのは、一九九〇年代に流行っていた「インスタレーション」とは何か、を訊いたとき。
「中心がないということ」
その即答に、氏の目のつけどころに感嘆したものだった。
彼らを追うように、しばらくの間は「美術評論家」という肩書が、社会的な影響力を持つ時代が続く。その最後の世代が篠田さん。
篠田さんの特質に、いい意味での「アカデミズム」がある。先の三人は、東大(東野氏)、京大(中原氏)、東北大(針生氏)という出自を持つ。
篠田さんは、羽仁もと子と吉一夫妻によって創設された自由学園という、「毎日の生活を生徒自身が責任を持って行う『自労自治』の精神に基づいた」(※「」内Wikipedia引用)、この国の風土とは違った環境で育った。その精神は、彼の批評の対象へのまなざしに反映されている。
彼が、資料をきちんと踏まえ、対象をとらえようという姿勢なのは、偶然なのか、そのことが影響しているのか、そう考えたことがある。それはナンセンスな問いだと、のちに彼の「まなざし」とともに気づいたのだけど。
鋼板を素材とした彫刻作品を特徴とするアンソニー・カロに関する篠田さんの講演を聴きに行ったときのこと。制作活動に行き詰っていたカロに、ある評論家(筆者註:篠田さんはきちんと名前を挙げていたのだが、私が失念してしまった)が、彼にこうアドバイスしたという。
「表現方法を変える。それともうひとつ。素材についても」
この後、カロは鋼板を素材にした作品を制作し始め、彼のアーティストとしての地位を確立する。
こうしたエピソードを、さりげなく言ってのけられるのが、篠田さんだった。
篠田さんが美術評論家を目指したきっかけのひとつに、東野さんの評論を読んだことがある、と編集長から聞いたことがあった。「美術評論で、こんなこと(=美術の枠を超えた発言:筆者補足)ができるのか」と感銘した、と。
真面目で誰にでも人当たりがよく、絵的にもダンディな男性がわかりやすい語り口で美術を評論する。そんな篠田さんを、メディアをはじめ世間が放っておくわけがない。毎月のように海外出張をしていた彼に、あの悲劇が襲う。
一九九三年、脳幹出血で倒れる。
最初に触れた、もうひとつの符号とは、このこと。
前回の安齋さんのときにも触れたが、篠田さんには、美術関連の仕事を長く担当させてもらった。そのこともあって、あるとき個人的な相談をした。このまま、この出版社に居続けるべきなのか、と。
「ねぇ、三十歳になったときに、四十歳になったら、四十歳になったら、五十歳になったら、と言っていたら、いつまでも、そのときは来ないよ。北野くん」
篠田さんを自宅に送るタクシーの中で、彼はそっと力強く僕の背中を押してくれた。
今なお病院でリハビリを続けている篠田さん。身体に麻痺は残っているものの、倒れる以前と変わらず、発言はスマートでクリアーなまま。
篠田さんともう一度、一緒に仕事をする。それは、僕にとって必然の約束だ。
2025年7月22日
(つづく)