松風 18

松風 第一八回 

 “ファースト”から“イコール”へ

  

              北野健治

 参議院選挙が終わった。自民党の凋落ぶりには目を覆うようだったが、それにもまして気にかかったのは。新右翼ともいえる勢力の躍進ぶり。

 数年前からヨーロッパでも、この勢力の動向が話題に上るようになった。フランスでは、かなり以前の大統領選をはじめ顕著だが。私が驚きを禁じ得ないのは、ホロコーストを犯したドイツでも勢力を伸ばしているという事実。また移民の国、アメリカのトランプ大統領の施策の方針も同じものだろう。

 企業がグルーバルになる一方で、人々のメンタルはドメスティックになるという二律背反の不可思議さ。いや、そうではないのかもしれない。グローバルとドメスティックは、比例するのかもしれない。外へ広がる力と内へと閉ざす力の作用と反作用。

かつて、いまの立憲民主党が政権を担ったとき、政府の事業の仕分けを公開で行った。その手法は、一時注目を浴びる。

作業会議の中で、責任者が科学技術の開発に関して、「(科学技術とは)世界で一番でなければならないのか」(()内は、筆者補足)という質問を関係者に発して、失笑を買ったことは、まだ記憶の片隅に残っている。

ファースト【first】①第一。最初。②(ファースト・ベースの略)野球で、一塁。また一塁手[広辞苑 第七版]

First副1第1に、1番目に、1位で:2最初に、まず初めに:3初めて:4(…よりは)まず…、(…するくらいなら)むしろ(rather):[研究社 ライトハウス英和辞典 初版、形、名は略]

先の仕分け会議や今流布している「ファースト」は、「第一」や「第1に」の意だろう。ここで注意したいのは、「ファースト」という語義には、価値観や倫理観は含まれていないということ。この語句に、何らかの価値や倫理を付与するのは、使用者の問題だ。

今回の選挙戦を通じて「ファースト」の使われ方について感じたことがある。それが冠されるには、妥当なジャンルとそうでないものがあるのではないか、ということ。

もっと直截的に言えば、「日本人ファースト」と唱えることが、社会的、政治的、基本的人権として問題ないのか、ということ

ここまで書いてきて、ふと思った。日本を含めて、新右翼的なこれらの勢力は、自国内では自国民の「ファースト」を唱えているが、自国外では、どう考えているのか。

まさか他国でも「ファースト」ではあるまいし。しかし「セカンド」以下でもないだろう。そこにどんなプライオリティーがあるというのだろうか。

私は、順位付けではなくて、ルール作りは必要だと考える。この国に税金を払っている人は、国籍には関係なく、社会福祉は適用されるべきだ。

その一方で、他国籍の人が日本の土地の所有権を売買できるのは、規制するべきだと思う。なぜなら日本の土地は、日本のものであるから。

もう一歩進んで、日本国籍でも、土地の使用権は売買できても、所有権はできない、という規制も考えることができるかもしれない。

“ファースト”の呪縛。

順位ではなく、問題に対するプライオリティーの問題がある。“ファースト”から“イコール”へ。

今回の選挙を踏まえて、国に対応する国籍と人権に関するルール作りに、この国に住む人々を巻き込んで着手するべきときが来たのではないか。

それはまた、未来のこの国の人たちや世界に向けての「日本」の姿勢をアピールできる貴重な機会となるのだから。

 2025年8月24日 

               (つづく)

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