松風 第一九回
ユーモアのケア
北野健治
この連載エッセイを始めるにあたって、「場」を創りたいと書いた。そんな場に関する心に沁みるTV番組を観た。
「独りでも、大家族 ~久留米・じじっかの1年~」(NHK・ETV特集 8月9日再放送分)。ネットで配信されている番組の概要を以下に転載する。
「福岡県久留米市に週末となると子どもたちが集まる場所がある。食事をとったり、ダンスをしたり、くつろいだり。実家よりも実家のように過ごしてほしいと、ついた名前は『じじっか』。子どもだけでなく、子育てに悩むひとり親や生活保護を受ける家族、不登校の若者もここに居場所を求めてやってくる。他人同士でありながら、お互いの悩みと真剣に向き合い、解決への道を探る『じじっか』。ちょっと不思議な大家族の1年を見つめる。」(点ルビ筆者)
「じじっか」は、シングルマザーの三人が、自身の困難だった社会生活を踏まえて立ち上げた一般社団法人。番組内では、さまざまなエピソードが取り上げられるが、その中でも特に印象に残ったものがある。
女子高生のときに、市役所の紹介で「じじっか」に通うようになった成人した女性のエピソード。当時、彼女は幼いころからの父親からの暴力と親戚による性被害から、自傷行為と自殺未遂を繰り返していた。そんな状況で、ある夜に代表者に彼女から電話が入る。
「それこそ(彼女が)泣きながらね 今から車に飛び込むっていうけん そうよね あんたも疲れたよね いやちょっと待って なんで知らん人があんたの体を傷つけないかんとよ みたいな ちょっと待って 30分でそっちへ行くけん 私が全力でひいてやるけん …… 死にたいって考えよったはずなのに 最終的にいつも笑いながら終わったね」(代表者、()内、筆者補足)
「そうそうそう マジで絶対笑うっちゃん」(成人した女性)
このやり取りを観たとき、私の頭の中に「ユーモア」という言葉が浮かんだ。「笑い」だからか。ではない。ウイットでもなく、ペーソスでもない「ユーモア」。そのときは、なぜその「ことば」なのか、自分自身でもよくわからなかった。
先日、家族での外出の帰りに、娘と本屋に立ち寄った。彼女には、めぼしいものがなかったようだったけれど、僕はあるブックレットに目をとめた。
『集中講義 中井久夫 心の病の「豊かさ」を読む』(著者:斎藤 環 発行所:NHK出版)
テーマに取り上げられている「中井久夫(1934―2022)」は、30年ほど前から折に触れ手に取る書籍の著者。統合失調症研究を中心に、碩学で透明な文体のエッセイも記す精神科医だ。
解説本をたまに入手することがある。だが読了できるものは稀だ。そのわけは、読んでいて自分のレベルでは理解不能な袋小路のような迷路の論理によるものが多いため、もっとも自分の力量不足が最大の理由ではあるのだが。
僕にとっての解説書は、自分が読んだことのあるテキストに対して、筋道をつけてくれるもの。例えてみれば、霧中の道が解説という「風」で霧が吹き飛ばされ、一本の道がはっきりと見通せるようになること。その意味で、このブックレットは、久しぶりに読了できた。
自分の中で腑に落ちた中井のテーマのひとつに、斎藤氏が提示した「キュア(治療)」と「ケア」の思想がある。氏によれば、中井は「ケア」のひとだった。
「ケア」は、いま流行りの思想である。だが、日本語に翻訳するのが特に難しいことばのひとつでもあろう。僕は翻訳者ではないので、その適語はわからない。ただその本質については、考えることがある。
僕にとって「ケア」とは、「寄り添うこと」。それは、中井が患者にたいしてとった姿勢を表しているようにも、僕は考える。
ブックレットを読み終えたあと、「じじっか」のエピソードのことが、なぜか心に浮かんだ。そうか、「ユーモア」とは「ケア」のことなんだ。あの「笑い」は「寄り添い」だったのだと。僕にとっての「ユーモア」が、このとき初めてはっきりと定義された。
2025年9月30日
(つづく)
