松風 第二回
「税」というポピュリズム①
北野健治
最近、この国の政治の世界で、「消費税」を始めとする減税の話題が喧しい。この夏に行われる参議院選挙への各党のアピールのためだろうが、論点が少しおかしい。そもそも「税」の成り立ちの認識が間違っているのではないか。
「税は国民の暮らしを支えています。」(国税庁HP)。素人考えだが、税金で国民の公的な福利厚生は賄われている。その費用としての税設計。つまり、現在のシステムで徴収される総納付金で、いまの私たちの公的な暮らしが成り立っている。足りなくなれば、何かが削られるという単純な話しに帰結する。
では、減税されることで、今の暮らしから「何か」が削られても、みんなには不満はないのか。もし、足りないのなら、何か別のもので補う、というのが一般的な考え方だと思うのだが。
勘違いしないで欲しいのは、私は減税に反対しているのではない。私だって、日々の暮らしに余裕があるわけではない。基本的には賛成だ。だからこそ、減税に対する対案の税をセットで提案するべきではないか、ということ。
税の問題では、もう一つ。トランプ大統領が、主要政策として取り組んでいる関税がある。確かに関税は、政治が取り扱う課題。が、彼のスタンスを見ていると、政治家というよりも、ビジネスマン的な発想の匂いを感じ取ってしまう。
ここで私が問題にしたいのは、彼のスタンスではなく、そうした彼が再選された「アメリカ」という国の実情のことだ。
前々回の大統領選で、彼が候補者になったとき、なぜ熱烈な支持者たちがいるのか、当初私にはわからなかった。当時の私にとって、アメリカは、ニューヨーク・ワシントン・シリコンバレーの国のイメージしかなかったから。貧困なイメージしか持てなかった自分が、今では恥ずかしい。
しかし、実情は違っていた。農業・漁業・鉱業・製造業等を担う、多くのブルーカラーワーカーたちが生業を立てている。確実にアメリカにも格差が拡がっている。だから、彼らの心情を代弁するようなトランプが支持される。その結果が、今回の関税のかたちに結実する。
何のための税金か、ではなく、人気取りのための税金。
制度設計する者も、徴収される者も、もう一度税の理念に立ち戻って振る舞うときではないか。
2025年4月29日
(この項つづく)