松風 第二六回
歴史に汲むdecency
Japanese Modern Classic 6
北野健治
前回取り上げた渡辺一夫の資料を読んでいるときに、ひとりの人物に邂逅した。日本人ではないにもかかわらず、この国の歴史に愛情と実感をもって探求したカナダの外交官、E.ハーバート・ノーマン(一九〇九―一九五七)そのひとだ。
在日宣教師の息子として長野で生まれ、その後はカナダ、イギリス、アメリカと教育の場を移しながら成長した。戦前・戦後に前述の外交官として来日し、日本人の知識人たちと交流を深める。そのひとりに渡辺がいた。
私が渡辺の資料の中で出会った文章は、『日本現代のユマニスト 渡辺一夫を読む』(著者:大江健三郎 発行所:株式会社岩波書店 ※①)の中の一節。「ノーマンさんは殺された」。
ノーマンは、戦後のマッカーシズムの中、ソ連のスパイの嫌疑をかけられたことを受け、外交官としての赴任先のカイロで、飛び降り自殺を遂げる。
大江は、渡辺が三種類の「ノーマンさんのこと」を記したことに触れ、こう語る。
「カナダ大使としての、スエズ戦争に対する大きい努力が、ノーマンを疲れさせていたということもあるでしょう。外交官であるより、まず繊細な学者なのですから。そこで自殺をしてしまったのですが、眼鏡と時計だったと思いますけれども、それらがビルの上に置いてあって、そこらを行きつ戻りつして考えられたらしい。それを新聞で読んで、自分は暗然とした、というのが渡辺先生の文章です。先生の、ノーマンを死に追いやった権力に対する怒りはまことに激しいものです。」(前掲書①)
ノーマンの文章に触れて感じるのは、その深い教養に裏打ちされた見識に伴う謙虚な上品さだ。これみよがしにではなく、あることを論じるために必要な過去の事例や文献からの一文を引き合いに出す。文章の流れの中でさりげなく。
先の大江の著書(①)の中で語られているが、渡辺はノーマンに「現代のユマニスト」を観ていたらしい。
ノーマンの『忘れられた思想家―安藤昌益のこと―』(翻訳者:大窪愿二 発行所:株式会社岩波書店)の表紙カバーのそでに、次のような内容の概略が載っている。
「徳川封建制度に対する本格的な批判者としての安藤昌益を発見した著者(筆者註:ノーマン)は、この政治思想家の全貌や当時の思想潮流を的確に描きつつ、世界史的観点(点ルビ筆者)からもその独自性を明らかにした。」
歴史をどうとらえ、評価するか。個人的には、日常の些細な出来事からグローバルな視点にまで展開する手法のダイナミズムとスリリングさに意義をみる。そこにこそ、その論者の史観が端緒に顕われているのだと。言い換えれば、何に焦点を当てるのか、からすでのその史観は始まっている。
「少々乱暴ながら、試しにこう考えてみると、よくわかる場合が少くない。すなわち、なにかの古い慣習や伝統が名うてのデマゴーグやひとりよがりの独裁者からの攻撃の的にされているときには、それらを尊重してもよいのではないか。そこで古い昔にかちとられたけれどもゆるがせにしたために危うくなった堡塁を辛抱づよくたゆまず守りぬくこと、そして、将来の進歩は長く遠まわりな道程をたどってはじめてもたらされると信ずることが自由に最もよく奉仕するみちである、ということになるであろう。」(『クリオの顔―歴史随想集』所収「クリオの顔」 著者:E.H.ノーマン 翻訳者:大窪愿二 発行所:株式会社岩波書店 ※②)
ここには渡辺の「希望を持ちすぎず、絶望もしすぎず」の精神に呼応するものがある。ノーマンのdecency。それが私にとっての彼のエッセンスだ。
「歴史の女神であるクリオ」「クリオは、周知のように、ミューズのなかではいちばん内気で、彼女の顔は時にほんの一部分しか現わされない。九人の姉妹のうちで彼女はその信奉者にもっとも重い要求を課したように思われる。」(前掲書②所収「クリオの苑に立って――序文にかえて」)。
彼女の信奉者を自認する「忘れられつつあるカナダの外交官」には、歴史を通じて「いま」をどのようにdecencyに向き合うべきかの志が読める。
2025年11月23日
追記 文庫版『クリオの顔』に収められた巻末の丸山真男の追悼文「E・ハーバート・ノーマンを悼む」も心揺さぶられる。
(この項つづく)

