松風 第二八回
闇の力―ことばを超えて
Japanese Modern Classic 7
北野健治
齢を重ねることは、テキストの読み込み方に似ている。年齢という層を増すにつれ、テキストの重層と相通じ、それまでとは違った角度からの視点が得られる。それには本人の気づきもポイントだけど。
そういう意味で、若い時分に凝っていたけれど、しばらくの間気に留めなかった作家が、ある時から妙に気になってくることがある。
今の私にとって、それは開高健だ。
作家に関していえば、資質に生まれ育った環境の影響も無視できないような気がする。
例えば、大江健三郎の愛媛の山村や中上健次の和歌山の路地はわかりやすい。村上春樹にしても、僕には芦屋の海風を感じることがある。その意味で、開高には、戦後の焼け跡の大阪の匂いがする。
開高の印象としては、行動派の観が一般的だ。特に、ベトナム戦争に従軍して生まれた「闇」三部作は、その本領を発揮している。その資質は、晩年のフィッシングをモチーフにしたルポルタージュ「オーパ!」シリーズに結実する。
最近、なぜか開高が井伏鱒二と対談したドキュメンタリー番組のことを思い出してしまう。番組の中、居酒屋で酒を酌み交わしながら文学談話をするふたり。酔いが回ってきた開高が、その勢いを利用して井伏に切実な内面を吐露する。
「文章が書けへん。」
井伏は、持ち前のひょうひょうとしたキャラクターで受け止める。とにかく何でもいいから書けと。それに応じる開高の目は、覚めながら闇を抱えている。
その後、開高は「オーパ!」で新境地を拓くのだけど。あのシーンには身震いした覚えがある。
「闇」三部作の一作目、『輝ける闇』を発表したとき、三島由紀夫が「すべてを想像力で描いたのなら偉いが、現地に行って取材してから書くのでは、たいしたことではない。」と評した(Wikipedia参照)ことは有名だ。
このエピソードは、開高と三島の資質の違いだけでなく、三島の限界をはっきりと示している。
開高には、想像で描くだけの力量はあっただろう、そうではなく、行くことでしか書けない“経験”をしに行ったのだ。それが「闇」だ。
「闇」は言葉を無化する。僕が「闇」を経験したのだと考える、開高以外のふたりの人物がいる。ひとりは、哲学者のヴィトゲンシュタイン。もうひとりは、言語学者のソシュール。
「闇」は深化する。三部作の残りの二作、『夏の闇』『花眠る闇』でも、それは読める。が、僕としては、「ロマネ・コンティ・一九三五年」と「玉、砕ける」が、ひとつの頂点のような気がする。
ワインの逸品「ロマネ・コンティ・一九三五年」は、それがそのままモチーフとタイトルになった作品。二人の登場人物が、その栓を開け、口に含む。すでにワインとしては味わえない。死んでいるロマネ。しかし、主人公は、その「死」に闇を嗅ぐ。「玉、砕ける」もテーマは“闇”。
「闇」とは何か。闇三部作の一部のタイトルにもなった「輝ける」というパラドックスなレトリックも、一面を衝いている。
私にとって“闇”とは、「魂」=「存在」だ。だから「光」にもなりうる。この「闇」は、無から有を生じるポジティヴなもの。ただそこには、善も悪もない。今ふと思ったのが、神話に観られる世界の発端をはらんだもの。
かつて角川文庫で、開高の作品を「動詞」でまとめたシリーズがあった。それは、晩年の開高の姿を彷彿させるものだった、と今になって思う。
ことばで「闇」に魅入られた作家が、身体で「光」の世界に通じるようにアプローチする。その必死で誠実な姿。それは、先の大戦の際に、焼尽に帰した大阪で育った彼の運命だったのかも。
知り合いのバーの壁に飾られた「オーパ!」関連のモノクロ写真群。大自然の中で酒を飲む彼の眼には、闇を見通した先にある光を信じている微笑みが湛えられている。
2026年1月3日
(つづく)

