松風 4

松風 第四回 

 「ヴィジョン」がつくる―Japanese Modern Classic 1

               北野健治

 初回に、この国は文化が伝わっていかない、と書いた。そのことについて同人と話したとき、ある小説のことが話題になった。『死靈』。埴谷雄高の未完の小説。

―今回は文学だが、サブタイトルにもあるように、既に忘れ去られつつあること、もの、人たちについて、ランダムにシリーズで書き継いでいきたい―

さて、『死靈』だが、この物語には二つの特徴がある。一つはジャンル、もう一つは成り立ちだ。

ジャンルは、日本では稀有な「観念小説」。こう書いただけで、ゾクゾク、ワクワクするのは私だけか。成り立ちは、全一二章の構成のうち、第四章までが一九四六年から一九四九年に発表され、第五章が一九七五年に文芸誌に掲載される。第四章から第五章発表までのブランクが、なんと二六年⁉ その間、ずっと彼は構想し続けていたということ。

登場人物は、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』をなぞった四人の異母兄弟。彼らが、「存在」の究極の革命を試みる五日間の出来事。物語は、三日目までの第九章で、彼の死去に伴い未完に終わる。

こう書くと、なんだかヤヤコシイ話のようだが、読み物として面白い。読み方のアプローチを変えれば、彼が好きだった探偵小説の趣がないわけでもない。それに、会話主体のストーリーだが、シーンの描写が美しい。

私が初めて手にしたのは、中学生のとき。なんだかわからなかったが、次のシーンには、心震わされ、終生そのイメージが忘れられなくなった。それは、物語に入る前の〈自序〉の次のヴィジョン。少し長いが引用する。

「菩提樹の下で釋迦が正覺し無窮の碧空を眺めあげたとき、ふと思い出したのがこの大雄(筆者註:耆那教團の始祖〈自序参考〉)である。(中略)ヒマラヤに似た美しい白い雪をかむつたその高山へ辿り着いた釋迦は深く暗い洞窟のなかへ大雄の前まで静かに進んでゆく……。これが私のヴィジョンの出發點である。」

構想では、物語の後半に、釋迦と大雄の対話が作中人物によって書かれる予定だった。

一時期、日本で、この「ヴィジョン」という言葉が流行った。が、この言葉も、この国らしく進化することなく、一過性のものとして今に至る。

ヴィジョンとは、何か。日本文学で、最も欠けているのが、このヴィジョンではないか。それこそが、“世界”を対象とする視座なのではないのか。

これからこの国で、どんなヴィジョンの文学が出てくるのか。ゾクゾク、ワクワクしている。

2025年5月3日

              (つづく)

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